現在の勝山御殿跡
私が紹介するよ~
大きな石垣、ここは「お花畑と憩いの広場」という名前の二の丸です。
写真は冬のお出かけだったので、お花が咲いていなくて残念✕✕
ミツガシワ
本丸(ふれあい広場)の横には池があり、春には、氷河期の遺存植物で絶滅危惧種の「ミツガシワ」が咲いていました。
「お~咲いた咲いた♪」と喜ばれている男性がいらして、
「珍しいんだよ」と教えて頂きました。
勝山御殿ができるまで
尊王攘夷運動
幕末、鎖国から開国した日本には、外国から安くて質のよいものが入ってくる様になり、日本の産業は打撃。
そんな中で人々は幕府に対して不満・反感を抱くようになり、
「天皇を敬い(尊王)外敵を打ち負かそう(攘夷)」という思想が生まれ、全国に広まっていきました。
この「尊王攘夷運動」により時代は激化。
「安政の大獄」を経て「桜田門外の変」へと発展。
しかし国が一丸となる事はなく、業を煮やした長州藩は、独自に攘夷を掲げ外国を攻撃する事にしました。
1863年、下関の海峡(関門海峡)を通る外国船を大砲で攻撃。
逆に大打撃を受け、その過激さを天皇にも嫌われて長州藩は京都から追放されてしまい、攘夷派は一気に衰退。
翌1864年、長州藩は下関海峡を封鎖しますが、四国連合艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)の総攻撃を受けて敗北します。
ものすごく簡単な説明ですが、これを「下関戦争」といいます。
その後、現状での攘夷は無理と判断した薩摩藩と長州藩。
やがて倒幕運動へと繋がり明治維新が起こりました。
下関戦争時の長府藩
長府藩とは、長州藩の支藩のひとつです。
お城は海沿いの櫛崎城(現在の関見台公園)。
当時の藩主毛利元周は、外国船の報復攻撃に備えて、海沿いの櫛崎城を離れて、山に藩邸を築く事にしました。
長府藩の男女が総動員され、突貫工事で築かれた藩邸は、わずか数か月で完成したそうです。
それが勝山御殿です。
「御殿」といわれる訳
勝山御殿、機能的には「お城」ですが、構造は「陣屋」
本来ならば、藩主が居所を変える場合は幕府の許可が必要でしたが、外国船の報復を恐れての早急な引っ越しで、無許可での藩邸引っ越しの為、
この様な構造にしたのでは?
と言われているそうです。
おまけ
クンクンして歩くのも大好き♪
「多分、野生動物も歩いてるな」って思うよ。
超興奮してウキャーッてなるワン♪♪
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